在宅医療のことを知ると人生にポッと火が灯る
LifeWell えーきちブログ

えーきちプロフィール

こんにちは。
“えーきち” こと、永吉裕子(ながよし ゆうこ)です。
おわかりとは思いますが、“永吉”なので、“えーきち”です。

えーきち@おすまし顔 プロに撮影してもらった

私は東京オリンピックの年(2020年でも2021年でもなく、1964年)に
四国の愛媛県松山市で生まれました。
それからは、松山と関西を行ったり来たりするような人生を歩んでいます。
そして、今のことろは大阪府の北西の地に住んでいます。
とりあえず、私のプロフィールを知りたい方のために
学歴とか取得資格、職歴を簡単に紹介します。

もっと私のことが知りたい方は、下の方までずずずいっと読み進めてください。

<学歴とか、取得資格とか>
1985年 京都女子大学短期大学部卒
2006年 鹿児島鍼灸専門学校卒
はり師・きゅう師・あんまマッサージ指圧師 資格取得
介護支援専門員資格取得

<職歴とか>
20歳 愛媛信用金庫 勤務
21歳 ワーキングホリデー制度を利用して渡豪
24歳 (株)リクルート大阪支社 勤務
27歳 関西の大手旅行社の国内旅行企画部門 勤務
30歳 コピーライター稼業
39歳 鹿児島鍼灸専門学校入学
42歳 医療法人ゆうの森勤務
55歳 医療法人ゆうの森退職

執筆協力著書
「在宅医療をはじめよう! 非がん患者の自宅での看取り」南山堂
「在宅医療をはじめよう! 医療を変える,地域を変える,文化を変える」南山堂

執筆協力連載
日経ヘルスケア 「たんぽぽ先生の失敗に学ぶ 在宅医療マネジメント塾」(日経BP社)
在宅新療ゼロヒャク(休止)「在宅あるある絵日記 今日も訪問日和」(ヘルス出版)

“自分探し”でフラフラしていた20代

「専業主婦になるだけの人生はいやだ〜!」という思いから、短大卒後、信用金庫に就職したのは、ワーキングホリデー資金を貯めるため。
1年と3ヶ月の勤務で200万円もの資金を貯めて、22歳で渡豪したのは1986年のこと。
日本はバブル景気前の円高不況真っ最中。
ちょっと前まで1ドル240円とかだったのが、160円になって、このままだと日本の産業が全滅すると大騒ぎしていた頃です。
(あ、当時のレートは記憶によるものなので、正しくない可能性大です)
バブル前の不景気を知っているから、「どれだけ不況だって言っても、その後に超好景気が来ることもあるんだぜっ!」と、バブル世代の私は世の中をどこか楽観的に見ているのだと思います。

補足すると・・・就職活動をしていた1985年はまだ男女機会均等法施行前で、結婚したら退職は当たり前の時代。
そして、結婚なんぞしてしまったら、専業主婦になるしか人生の選択がない・・・ように当時の私には見えていました。

そんな人生なら、死んだ方がいい。
でも、死ぬ前にせめて、自分の夢の1つでも叶えておこう。
旅行ではなく、海外で暮らす・・・という夢を・・・
ということで、ワーキングホリデーに賭けたのです。
なぜ、海外に暮らしたかったのかというと、1970年の大阪万博の影響だと思います。
その頃、うちの家族は大阪に住んでいて、万博には何度も連れて行ってもらいました。

バブル直前の時代、海外に一人で行くなんて大変なことでした。
なんせパスポート一つ取るのに、預金残高証明が必要だったくらいなんです!
最低でも100万円の残高証明が必要と聞いて、必死で貯めました。

オーストラリアに行ったのは、ワーキングホリデー制度があったからで、オーストラリアについては当時はあんまり知りませんでした。
今では大好きな国の1つですけど。
オーストラリアからの帰途、インド・ネパールを2ヶ月ほど一人旅しながら帰国。

24歳の年に帰国して、バブルの波に乗って、大阪へ。

(株)リクルート大阪支社や関西の大手旅行会社で働く機会を得たのですが、この時代に印刷や編集の基礎を学ぶことができました。
そして、30代に足を踏み入れた1994年の秋、関西を引き揚げ、松山に帰りました。

両親の闘病と死を体験した30代

松山では、兄が松山で経営するコピーライター事務所で働くことになり、広告や雑誌記事、企業や大学のパンフレットの企画・編集・ライティングなど、多岐多彩な仕事をしていました。
この時代に、タウン誌の取材で永井康徳先生と出会ったのです。

永井先生は35歳で愛媛県初となる在宅医療専門のクリニックを開業し、当時はまだ医療法人格のない「たんぽぽクリニック」の院長でした。
取材をきっかけに、たんぽぽクリニックが患者さんや関係事業所に配布するための“たんぽぽ新聞”の1ページを担当することになったのです。
それから1年ほど後に医療法人ゆうの森になり、新聞名も“ゆうの森新聞”になりました。

私の30代は、まだ60代の両親の闘病の時代でもありました。
私が松山に帰って2ヶ月もしないうちに、父が心筋梗塞で入院。
心臓バイパスを4本も作る手術を受け、4ヶ月入院。
そして、その数年後には膵臓がんであることがわかりました。
母は膀胱に腫瘍があり、のちにそれが“がん化”。
結局、私が36歳のときに父が、38歳のときに母が、それぞれがんで亡くなりました。

母の死の間際に私のマッサージを喜んでくれたこと、そして、がん患者の家族をケアしたい・・・という想いから、国家資格である鍼灸師とあんま・マッサージ・指圧師に国家資格を取得しようと決意したのです。

39歳のときに鹿児島鍼灸専門学校に入学。
コピーライターの仕事も辞め、実家もたたんで鹿児島に移住しました。
仕事を辞める際に たんぽぽクリニックに赴き、仕事を辞めること鍼灸マッサージ師を目指すことをお伝えしたとき、永井先生がポロリとおっしゃったのです。

「資格を取ったら、連絡ください」・・・と。

社交辞令とはわかっていましたが、3年後、自己採点で国家資格の合格がわかったときに、速攻で ゆうの森に電話しました(笑)

鍼灸マッサージ師として在宅患者に関わった40代

そして、2006年5月。私、42歳の春、医療法人ゆうの森に初の鍼灸マッサージ師として勤務するようになったのです。
はりきゅうマッサージ治療院クローバ を立ち上げ、1年後に院長代理、2年後に院長を拝命しました。
当初の希望どおり、自宅で療養する末期がん患者さんにマッサージをする機会をいただきました。

そのころの話は、こちらで詳しくお話ししますね。↓↓↓
https://lifewell.site/2020/04/03/鍼灸マッサージ師として在宅患者に関わった40/(新しいタブで開く)

在宅医療の情報発信を始めた50代

50歳を迎えた2014年、転機がありました。
はりきゅうマッサージ治療院クローバから、事務局企画広報室室長に異動になったのです。
当初は、新規患者さんの相談受け入れ窓口である、「在宅療養なんでも相談室」の副室長も兼ねていたのですが、半年経った頃に自己免疫性肝炎を発症してしまい2ヶ月近い入院と3ヶ月の在宅勤務をすることになりました。

このとき、上司であったゆうの森の専務理事から、
「復帰後に何の仕事がしたい?」と問われました。
(今、思い出しても涙が出るほどよい職場です・・・)
そのときに

自分にしかできない仕事をしよう・・・

と思ったのです。
訪問マッサージはすでに優秀なリーダーの元で優秀なスタッフが業績を上げていたし、相談室も私がいなくても問題なく回っていました(涙)。
だったら、法人内で誰もできない仕事、自分にしかスキルがない企画制作の仕事に特化しようと思ったのです。

それからは企画広報室室長として、大好きなゆうの森のパンフレットやクレドの制作、訪問看護の利用方法が簡潔に判明する小道具、そして研修会の企画運営などの業務に5年ほど携わりました。

そして、あと5年も勤めたら定年よね・・・というときに、また一大決心をしてしまったのです・・・

2018年は夫と夫の母が暮らす関西では、台風や地震などの災害に見舞われました。
夫とは2011年に結婚。私が仕事を辞めたくなかったために、結婚以来、大阪と松山で別居結婚生活をしていたのです。
大規模な災害が起こると、交通が寸断されて被災地には簡単には近づけません。
南海トラフ地震がいつ起こるかわからない。
被災するなら、一緒にいた方がいい・・・
新しい仕事はまた見つかるかもしれないけれど、新しい夫は見つからないと思うので(たぶん)、夫と一緒にいることを選んだのです。

そして、ブログを始めた理由

2019年4月 13年間勤めた大好きな ゆうの森を辞めてしまいました。

辞めて何をするんだ? この選択は本当に良かったのか?
その思いをずーっと引きずったままでしたが、やっと1つの役割を見つけました。

企画広報室として、在宅医療の情報発信や研修会の企画運営をしていたのですが、対象は在宅医療に関わる“専門職”に向けてのみ行っていました。
業界を離れてみて初めて、業界外の一般の人に情報が行き渡っていないことがわかったのです。

今、親の介護に直面している友人からよく相談を受けるのですが、私がゆうの森で得た知識や経験を元にアドバイスをすると、とても喜んでくれます。
「そうか、ならばこんな風に介護で悩む友だちに伝えるつもりで、私が学んできたことをブログで伝えてみよう」と思いました。

これを書いている今日、新型コロナウィルスの感染拡大で私のいる関西では、不要不急の外出は慎むよう要請されています。
昨年、何かに憑かれたように松山を引き払って、大阪で夫と同居を始めたのはこれを予感していたのかもしれません(たぶん、違うと思いますが)。

同じように、何かに突き動かされるように「このブログを作りたい」と思ったのは、いつかどこかで誰かの役に立てることがあるかもしれないからかも・・・と思い始めています。